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行政が示す「まちの未来」と民間の「課題解決力」をつなぐ協働こそ、ローカルの生き残る道

東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市。復興への歩みの中で、行政は多くの民間団体と協働を進めてきました。少子高齢化・人口減少等の「課題先進地」ともよばれた被災地で官民が行った連携の事例には、全国のローカル地域へのヒントがちりばめられています。戸羽太市長に話を聞きました。

プロフィール

戸羽 太(とば ふとし)陸前高田市長
昭和40年神奈川県足柄上郡松田町生まれ、東京都町田市育ち。
東京都立町田高校卒業。平成7年に陸前高田市議会議員初当選後3期12年務める。
その後同市助役、副市長を経て平成23年2月に陸前高田市長に就任し現在3期目。

1.復興計画策定と「本来の協働」のはじまり

<対立的になりがちな行政と市民>

陸前高田市は津波被害が非常に大きく、当初は市役所機能そのものも止まった状態で大変な混乱でした。市民の間では「意見を聞くよりとにかく早く復興を」という声が大多数でしたが、がれき撤去や工事は慎重にせざるを得なかった。見つからない行方不明者が膨大な数にのぼっていたからです。それでも2週間、1ヵ月…と日が経つうちに、復興の方向性についてさまざまな意見が出てきました。立場によって考え方や要望は多様で、一つ決めるごとに厳しい意見が寄せられましたし、説明会などでは市幹部が数百人の市民からにらまれる。行政と市民が対立的な構図になりがちで、当時は協働が生まれるような状況ではなかったというのが正直なところです。平成23(2011)年12月の議会で市の復興計画が議決されるまでは葛藤の連続でした。

<ゼロから一緒に始める>

復興計画の概要(基本理念)
出典:「陸前高田市震災復興計画」(H23.12)より

市の復興計画の期間は8年としました。被害状況をふまえると5年では無理だが、高齢化率が高い地域で10年はあまりに遠い。市民の皆さんがあきらめずに共に歩めるギリギリが8年と判断しました。

「復旧」を目指したのではありません。ローカルの中のローカルといえる陸前高田には震災前から課題が山積していました。少子高齢化に人口減少、公共交通の脆弱性、医療過疎……復興の過程で、もともとの課題も合わせて解決しなければならない、前より良いまちにしないと復興とは言えない。そういう意気込みでした。

復興計画が策定され、市街地をかさ上げ整備することを決めると次の段階に入ります。ここで職員らは「ゼロからのスタートだから」と、商店街の皆さんと一緒にまちづくりを進める方法を取りました。商工会、震災後に商業者で結成した「高田まちなか会」、障がい者の方々にも入っていただき「まっさらな皆さんのフィールドを皆さんで決めてもらいたい。話し合いましょう。」と呼びかけました。従来なら行政が作った叩き台に意見をもらい、修正して成案とするのが通常の流れですからまったく違う。スピード感は多少劣っても市民も納得の上で進める、課題をすべてつぶせないとしても腹を割って話し合うことを選んだのです。これによって、官と民が目指す方向性も責任も共有し、個々の商店はより効果的に力を発揮できました。構図がガラリと変わり、仲間意識が生まれたことは職員も実感しています。従来も「協働」という言葉は使っていましたが、行政のリードに民間の組織がいくらかついてきてくれるイメージでしかなかった。「これが本来の協働なのか」と、このとき初めて腑に落ちた職員が多かったのです。この頃から、行政側からの一方通行にならないやり方ができるようになり、今ではそれが当たり前になっています。

2.民間の果たした役割

<行政と市民のつなぎ役>

ゼロからのまちづくりを市民と一緒に始める中で、多くの市民団体・NPO法人が生まれたり、日本中・世界中から入ってきたりして活動を始めました。実は私も市職員もNPOの何たるかをよく理解していませんでしたが、活動を見ているうちに彼らは強い目的意識のもとに集まり、課題解決のために団体を立ち上げ使命感を持って動いていることが伝わってきました。住民に寄り添い声を聞き、ニーズを理解して、得意分野を生かして必要な活動をスピーディに根気よく行う。壊滅した被災地にやってきた「正義の味方」みたいな存在でした。壊滅した被災地にとって、頼もしい存在になってくれました。

<生の声を拾い、柔軟に動く>

一般にも開放されている市役所新庁舎7階の展望ロビー
市内や海を一望することができ、復興の象徴「奇跡の一本松」の資料なども展示されている。

行政組織は縦割り型ですから、例えば「高齢者向けにSNS教室が必要だ」という場合、高齢者の担当は福祉部で、ITは総務部だからどう連携を取るか、とやっているうちにスタートが遅れます。しかしNPOはフットワークが軽く柔軟で、必要だと思えばもう動いている。また、われわれも市民の声を聞くために老人クラブや子育てグループなどの代表の方と会うことはありますが、集会所にいるお年寄りや遊び場に集まっているお母さんたちから直接困りごとを聞く機会はない。彼らはそういう場所にすっと入っていき、生の声をたくさん聞いています。まさに行政の手の届かないところを埋めてくださっている。継続した地道な取組が、民間の得意とする動き方であると感じています。

震災後は把握できないほど多くの団体がありましたが、復興とともに活動内容はまちづくりが中心となり、数も減少しました。長く残っているのは、今なお必要な取組を行っている団体です。例を挙げると移住定住支援を行う「高田暮舎(たかたくらししゃ)」。彼らは陸前高田へ移住する良さだけでなく、デメリットも住民目線で率直に発信します。スタッフに移住経験者がいるから、移住を迷っている人も相談しやすいですね。行政担当者の言葉とは説得力が段違いです。日頃から地域に密着して活動し、地域の課題や本当に必要なことを理解している団体が、課題解決を目指して動いてくださっているのは心強いです。

3.行政組織側に起きた変化

<業務を民間に託す意識>

震災前の陸前高田市役所は旧態依然とした、まさに「ザ・市役所」といった組織。民間や外部に事業を委託したり意見を聞いたりすることはほとんどありませんでした。変わったきっかけの一つは、震災後に他の自治体から来てくれた応援職員からの刺激です。彼らの中にはどんどん民間へ入っていったり、SNSで発信したり、われわれが思いつかない動きをする人がいて当時の若手職員はそれを面白がった。そして自主的に考えて動く習慣がつきました。並行して、市内で活動するNPO団体も経験を積み、できることが増えてきていた。そこで、役所業務の中で民間のほうがうまくやれることは積極的に託す動きが出てきました。年月が経ち当時若手や中堅だった職員が今は幹部ですから、力をつけた者同士、良い形の連携ができていると思います。

また震災後は大都市の大手企業と直接関わる機会も増え、職員の意識に影響を与えました。そもそもほとんどの行政マンは民間経験がなく、中小企業や商店街の悩みといっても頭で理解しているつもりで実際には分かっていない。例えば「検討します」という言葉を使うとき、行政はどこまで本気で応えようとしているか。民間企業は別次元のスピード感と切迫感で必ず答えを出します。その仕事ぶりを目の当たりにしたことは、職員が民間の団体と接する際の学びになりました。NPO団体が行政に提案や要求をしたとき、彼らは焦らされる思いで回答を待ち、段取りを組んでいるわけです。その感覚のギャップを埋める行動につながりました。

<震災から11年経過してみえてきた新しい課題>

震災で111人の職員が犠牲になり、その後入庁した職員が現在約半数まで増えました。震災当時からいて、あの悲惨な状況を歯を食いしばって乗り越えた職員は、やはり今でも強い想いとスピリットを持っている。しかし当時を経験していない、特にここ数年入ってきた若手は、能力は高いのですが想いの面で熱量が足りないように感じることはあります。庁内で震災体験の伝承は行うけれども、なかなか伝えきれない。そのあたりが、地域課題を解決する際の心の持ちように現れます。条件が揃えば誰でもできるが、何かが欠けているときいかにやり遂げるか。できない理由を先に並べていては何も起こせません。職員にはこれからもその力とスピリットを求めていきます。

4.民間との協働にとって大切なこと

<信頼関係と情報共有>

最近は、日常的なやり取りの中から協働が生まれることが多くなりました。この11年を共に歩んできた団体については、それぞれの特色や得意分野を概ね把握しているつもりです。市役所の中で「今度あんなことがしたい」「この課題をぜひ解決したい」という話が出れば、「あの団体ならそれを実現できそうだ」といった具合です。逆に団体のほうから「地域でこういう課題が生まれているが、うちはこんなスキルと解決策を持っているからやらせてほしい」と提案をもらうこともあります。

もちろん規模の大きな事業はさまざまな段階を踏みますが、そこまででなく今すぐなんとかしたいことを今すぐ的確に対応できる民間にお願いするということはあります。「当初予算に組み込んでいないから無理」の一辺倒ではなく、本当に必要なら補正予算を検討するなどなるべく臨機応変にサポートします。

ただし、税金を投入する事業である限りは行政の目指すまちづくりに沿い、市民に納得してもらえるものでなければなりません。その意味で、いくら優秀でも行政以外の団体が単体でまちづくりを行うのは困難ですし、まちづくり分野でのNPOの活躍は行政との信頼関係や情報共有があってこそ。行政としては、補助金を活用した事業の成果が表面的な報告書だけでは困るわけで、実質的な成果は何か、市民にとって本当に有益だったかを検証しています。

<門前払いにしない>

職員には、民間からの提案に丁寧に向き合うことを求めています。今は必要ないと考えられる内容も、どんな形ならまちづくりに活かせるか検討する努力をしてほしい。行政側もすべての提案は受けられない、しかし門前払いばかりでは意欲をなくし提案すら出てこなくなります。それはもったいない。若い世代の熱意ある提案ならなおさら、そこから新しい協働が生まれる可能性があります。お互いが気持ちよく連携できるような信頼関係を築く意識を持ってもらいたい。一方でNPOの皆さんにいつも伝えるのは「自走できる組織づくりをしてほしい」ということ。補助金に頼る運営には限界があるからです。NPO団体は雇用の場でもあり、もはや地元になくてはならない存在となりました。

5.これからのまちづくり

<協働がつくる新しい陸前高田>

復興計画の策定にあたり、当然大前提は「安全なまち」の設計でした。災害に強いまちを作ることです。また私が初めての市長選から訴え続けていることは 「ノーマライゼーションという言葉がいらないまち」。障がいを持つ人も当たり前に外出し、自分らしく人生を謳歌できるまちづくりを目指しています。並行して進めてきた交流人口拡大の面では、修学旅行や企業研修、 スポーツ・パラスポーツの合宿やイベント、国内外の友好都市との交流などが順調に伸びています。さらに水産業・農業等の一次産業振興も成果を上げつつあります。今や、これらのどの分野においてもNPOの皆さんが活躍し重要な役割を担っています。 地域外出身者やUターン者が震災当初から爆発的なエネルギーとともに乗り込み地域課題に向き合ってくれた一方、もともとの地元住民は自らの商売や家族、仲間を念頭に不屈の闘志で立ち上がろうとした。両者のバランスが非常にうまくかみ合ってきていると感じます。

<BRTが示す公共交通モデル>

震災前からの課題の一つである公共交通機関については、復興の過程でモデルケースとなり得る事例が生まれたと感じています。陸前高田にはJR大船渡線が海沿いを通っていましたが、市内部分の約90%が流されました。試算では、山側に移設・復旧するために210億円がかかると。とても出せません。そこでBRT(バス高速輸送システム)を導入しました。当初市民の反対はありました。鉄道が消えることに対する不安です。しかし結果的には以前より利便性が高まった。JRとの協議の中で新しいまちに合わせた駅を設定して学校や病院、商店街等を回り、本数も時間帯によって30分に1本と大幅に増えました。住民の皆さんは以前の鉄道なら使わなかった通院や買い物にもBRTを利用し、格段に身近になり好評です。まだ課題はあるものの、折しも全国でJRの不採算路線の見直しが議論される今、モデルとして他地域に発信できるのではないでしょうか。現に全国から視察にも来られています。

<若者が誇りを持ち胸を張って生きていけるまち>

地方の人口流出が止まらないのは魅力的な仕事がないからだと言われます。しかし本当にそうだろうか。都会の大学で学んだことを故郷で生かせないと思うなら、生かせる仕事を自分で作ってほしい。 そのための起業支援はどんどんやります。地方の生き残りをかけて各地で企業誘致が盛んだが、持続可能なまちづくりに必要なもののひとつは、やはり起業だと私は考えています。

国から「地方創生」という方向性が出ているものの、それ以前に地方が持続できる条件が整っているとはいえません。最初に述べた震災前からの課題は解消に至っておらず、中でも岩手は47都道府県でもっとも医療資源が不足している状態です。しかし、ウクライナ問題や原材料の高騰、気候変動などによって世界的に食糧難の不安が広がる中、農業や漁業がしっかりと根を張っている確かさは大きな強みです。若者は一次産業に関心を持ちにくいが、新たな可能性や魅力を示してイメージを変えていけばいい。今注目しているのはピーカンナッツで、実際に市内で栽培を始めました。行政とまちがやる気のある人を応援することが地方の生き残る道であり、そこには協働が不可欠。行政は「目指すまちの姿」を、民間は「自分たちのできること」を発信し、力を出し合い、地域を盛り上げる協働を生み出したい。最終的な願いは「若者が誇りを持ち胸を張って生きていけるまち」を作ることです。

思い返せば、震災前の陸前高田は外部の人や団体を受け入れにくいまちでした。震災が起きて日本中・世界中から人が来てくれて助けられ、住民の心がオープンになりました。現在コロナ禍で新たな課題が浮き彫りになる中、力をつけたNPOが意欲的に活動し、住民が抵抗なく受け入れ感謝できているのは、震災を経ての大きな変化です。被災地は日本の課題を先取りしたと言われますが、復興の過程で得た学びは私たちに課題を乗り越える力を与えてくれました。