水産一筋から一転、リセットされた南三陸町の町づくりに関わる
2008年、JR東日本が自治体と共同で行う大型観光キャンペーン「仙台・宮城デスティネーションキャンペーン(DC)」に向けて、南三陸町では地域の魅力を住民が知る、発見するために「ふるさと観光講座」を開催。この中から観光ボランティアガイドを提供する「ガイドサークル汐風(しおかぜ)」も誕生。このような時期に、旅行者を受け入れる観光地側が作る観光商品「着地型観光商品」を展開しようと、2009年に任意団体から一般社団法人化した南三陸町観光協会。第3種旅行業登録を行い、地域の旅行会社として出発した。
南三陸町と周辺地域の生活、文化や産業、経済の発展に寄与することを目的として、観光による町づくりの中核を担い、観光客の誘致を促進するとともに、観光地・観光物産の紹介、宣伝、観光施設の整備、関係者の資質向上を図って活動していたが、2年後に東日本大震災が襲う。

南三陸町では、商工業者の有志らによる福興市や、ガイドサークル汐風を中心に語り部活動が立ち上がり、外部からの人の受け入れが被災地の中でも早くから始まっていた。2012年2月には仮設の「南三陸さんさん商店街」がオープンし、佐藤仁町長も前面に立って情報発信を行ったことで全国メディアに取り上げられる機会が増え、多くの観光客を呼び込んだ。
一方で、一日も早い復興が町の最優先課題であり、観光協会としての事業再開のめどは立たず、解散の話も出たほどだったという。なんとか再出発することになるも、「リーダーを誰にするか」という問題に直面した。そんな中、当時の役員で一番若かった及川吉則氏に白羽の矢が立つ。
及川氏は当時、町の基幹産業である水産業を営む株式会社丸荒の代表取締役で、港の復旧や船の手配などに奔走していた。「まだまだ元気な先輩たちがいて、私自身は三役を経験したこともなく、水産や加工一筋で観光業の経験もない。初めは断ったのですが、解散の話も出たほどだったので、それならばと引き受けました」と話す。
会長に就任し、難しいかじ取りを任された及川氏だったが、「震災で町がリセットされた後でしたから、観光というよりも、町づくり全体に関わっていく感覚でした」と振り返る。
ニーズに応える形で観光商品やプログラムを続々と展開
観光資源に着目した大手旅行会社が、復興支援の一つとして観光商品の共同開発を協会に持ちかけた。「被災を売り物にするのか」という一部の地域住民の感情にも配慮して、物見遊山の視察メニューではなく、防災などの学びにつなげるプログラムであることを明確に打ち出した防災・震災学習プログラムが完成する。
被災地の視察や地域住民の講話を通じて住民の悲しい、大変な経験だけではなく、自然災害の脅威やこの震災で学んだこと、教訓になったことを伝えることで、震災の風化防止や防災に役立ててもらうためのプログラムとなった。

旅行会社の設定した料金は、当時の地域相場の約10倍。高すぎて参加者がいないのではないかという心配はあったが、「業界のプロがそれだけの価値があると判断したのでしょうし、関わる人たちがそれぞれ利益を上げないと続けていけないわけですから」と及川氏。
心配は杞憂(きゆう)に終わる。全国から団体客が続々と訪れ、多い時で年間450団体、1日1団体以上を受け入れた。個人の方からも「被災地を案内してほしい」という声があったが、最初は職員1人で担当していたために対応できなかったというほどの人気プログラムとなった。
このプログラムの売り上げで職員を増員し、雇用を維持。団体客の受け入れも落ち着いてきたタイミングで、個人向けプログラム「まちあるき語り部」を開始する。もともとニーズがあったものなので、受け付けを始めるとすぐに予約が相次いだ。
新型コロナウイルスの感染拡大で人の往来が途絶えると、オンラインを活用した語り部プログラムを始めた。「苦肉の策でしたが、人の動きが再開した後も、物理的な距離があってなかなか来るのは難しい方のニーズに対応できるので、これからも選択肢の一つとして残っていくと思います」と及川氏。教育旅行に来る学校が事前学習としてオンライン語り部を受講する場合もあるという。
「私たちが提供したいものを出すというよりは、世の中のニーズに応えてきました。まだまだ応えられていない部分もあり、どうやったら実現できるか、スタッフと日々考えています」と及川氏。
プログラムの運営においては、語り部ガイドを務めてもらう、体験プログラムを提供するなど地域住民の協力が欠かせないが、職員が考えたものを手伝ってもらう、という認識ではない。「主役は町民。南三陸は入谷、戸倉、歌津、志津川の四つの地区がありますが、それぞれの地区でみんなが関わって町づくりをする、観光商品を作るという体制をずっと意識してきました」と及川氏。
語り部ガイドもボランティアベースではなく、適切な謝金を支払うことで、質の高い内容を持続的に提供してもらうという協力関係を最初から設定していた。「南三陸町観光協会と地域住民のどちらがいなくても成り立たない。両者で一緒にやる、というのは言葉にすると簡単ですが、そう簡単なものではありません」と及川氏は話す。

住民、行政、企業が顔の見える関係で町づくりに関わる

簡単ではないことを、なぜ十数年も続けてこられたのか。「この町はちょうどいい規模で、各地区でみんなが顔見知りというか、知らない人はいない感じで、一緒にやりましょうと言えば協力してくれる関係性があります。だから実現できているんだろうなと思います」と及川氏は言う。
被災以前から取り組んできた「観光地域づくり」により、域内ネットワークが構築されていたことも大きかった。業種や地区、年代を超えたネットワークが強固に引き継がれ、そこに震災後に移住やUターンしてきた人たちが新しい視点を加えてくれたりもした。
行政との連携も密で、「こういうことをやりたい、こういうことで困っている」と言えばしっかりサポートしてくれるという。
「例えば学校の生徒たちが400人、500人で来て2時間程度で何かできないかといったニーズもあるんですが、町内で受け入れられるキャパシティーは限られています。どうにか応えられないかとスタッフみんなで模索する中で、行政にも協力してもらっています」と及川氏は話す。
水産業や宿泊業、商工関係など地元の企業や事業者は協会の役員でもあり、漁協や森林組合といった業界団体からの協力も得られる。
現在、南三陸町観光協会には三つの部会があり、食の魅力プロモーション部会、宿泊部会、マルシェ部会に分かれて、それぞれの部会に所属する会員企業・団体と一緒に次の一手を考えている。2023年には志津川で水揚げされたギンザケを「南三陸サーモン」としてブランド化、南三陸さんさん商店街をはじめ町内の飲食店や宿泊施設で趣向を凝らしたメニューを提供するフェアを行った。
会員に限らず町内の事業者がそうした取り組みやイベントを行う際には全面的にサポートする。「例えば漁師さんたちが販売会を始めた時も、われわれがノウハウを提供し、情報を発信して集客を手伝うことで、成功をサポートできたと思います」と及川氏は語る。

右肩上がりの実績も「ここからがスタート」 滞在型へ転換図る
2022年度は、教育旅行は122団体1万1,643人、防災・震災学習プログラムは172団体9,434人、まちあるき語り部は1,201人が参加。順調に数字を伸ばせたのは、前述のように防災・震災学習プログラムで、きちんと利益が見込めるよう価値に見合った料金を設定したことで、協会の職員の雇用を維持し、体制を強固にできたことが大きい。
語り部プログラム自体は他の被災した地域でもあったが、活動資金を補助金で賄っているものは数年で活動を続けられなくなるケースが多い。「結果論にはなるんですが、われわれは十分な収入を確保できる形で始めたので、継続して提供できる体制がつくれました」と及川氏。「今でも何か始める時には、それが維持できるかどうか、補助金を活用したとしても、それがなくなった後にどう続けるかのプランを最初に描くようになりました」とも話す。
会員企業から活動のサポートに対する手数料を徴収しているのも特徴だ。それによって観光協会のスタッフを雇用でき、投資にも回せるという理由からだ。「当初は抵抗感もあったかもしれませんが、メリットを明確に示して、収入にもつながるようにと組み立てているので、今では理解してもらえていると思います」と話す。
右肩上がりに協会の収入は増えて、2023年度は過去最高の売り上げを見込む。東日本大震災前は3人ほどの雇用を維持するのもやっとだったのが、現在では常勤が21人、アルバイトも含めて50人までスタッフが増えた。

町全体の入り込み客数も東日本大震災前の年間108万人を超える144万人に達し、コロナ禍で一度は落ち込んだものの、回復傾向にある。ただし、「人数が多ければ多いほどいいというものでもない。混雑しているからとすぐ帰ってしまったら、元も子もないですよね。受け入れる側の負荷だけが大きくなります」
「南三陸のエリア全体を広く使って滞在時間を延ばし、お客さんの数が変わらなくても金額が伸びていくような転換をしていく必要があります。交流人口が増えているのに対して宿泊につながっていないという課題もありますので、宿泊部会で今、宿泊を促進するプログラムも考えています」と及川氏。「いわば、ここからがスタート。ますます地域との関係を密にしながら、南三陸を活気づけていければ」と、意気込み新たに前を向く。
問い合わせ先
-
企業・団体名
一般社団法人 南三陸町観光協会
-
代表者
及川吉則[会長]
-
所在地
宮城県本吉郡南三陸町志津川字五日町200-1
- WEB